松岡修造に何があった!?過去と伝説そして現在

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世の中を見ると松岡修造ブームで、世界的にも名を広めています。もはやこの方が誰か説明するまでもなく広がっているほどで、熱くてポジティブ思考にちょっと逆に鬱陶しさも感じてしまう半面、なんだか憎めない。そんな松岡修造の名言や意外な過去、伝説について紹介します。

松岡修造

松岡修造

意外すぎる松岡修造の過去と伝説は?

一生懸命頑張っていれば不思議なことに疲れない、人もテニスもラブから始まる、褒め言葉よりも苦言に感謝などの名言を生み出している松岡修造さんですが、意外すぎる過去があるようです。幼少期に遡り、小林一三の孫であり、松岡 功の息子でありなんとお父さんは、東宝の元代表取締役会長で過去に何度も表彰されたり映画に関連でも数々の実績を残しているというかなりの経歴の持ち主です。そんなお父さんもテニスが大好きであり数々の大会で優勝するほどの実力の持ち主でありましたが、家業を継ぐために大学を卒業と同時にやめることになりました。その後、テニスとは一切関わりを絶ち、息子の松岡修造にすら話さないというほどです。息子の修造はテニスを始めてもなお父親がこのような経歴を持っていることを知らずという状況でした。

そんな修造がテニスを始めたきっかけは8歳のころ、姉がテニスをしているところを見て兄と一緒にテニスを始めたようです。その当時は身長も高いとは言えず、体型についてはかなり太っており周囲の大人にイタズラをしては怒られるというような面もあったようです。お兄さんについては対照的な存在で礼儀正しく大人しいという絵に描いたような子で体型や体格も素晴らしく、テニスについての能力も抜群でした。次第にお兄さんに周りが注目し始め、松岡修造は教えてほしいとコーチにお願いするも軽く受け流されたという過去があるようです。本人も当時はテニスに対しての能力の低さを自覚しており悔しい思いをしたそうです。

学校生活の勉強においても同様で、授業では先生の話を聞かないことや宿題もやらずでお母さんと一緒に呼び出されて怒られるというようなことも何度もあったそうです。しかし、三学期においてはそれらを何とか挽回すべくかなりの集中力を見せつけて留年を逃れるという先生も頭を抱えるような問題児でした。兄とは逆の存在なのでそれが注目される原因にもなったようです。

テニスについてはまだまだ才能がこのときは開花しておらず、それを指摘される始末です。普通の方ならそれを指摘されるとやめてしまいますが、松岡修造はそれに対して意欲が衰えるどころか増えていきました。元テニス選手の飯田藍さんの指導をうけつつ今まで以上に頑張るようになり、慶應義塾中等部になるころには校長から「テニスもいいが、学業もしっかりしなさい」と言われるほどテニスに集中し続けました。中学2年生になると全国中学テニス選手権大会で優勝し、才能の開花を見せ付けました。慶應義塾高等学校に進むとテニスの意欲は落ちてしまい、むしろマージャンに目が行くようになりました。これまでの頑張りは何だったのかと本人もびっくりするほどでした。そんな最中、これでいいのかと次第に疑問を持つようになり、目標の無い大人になってしまっていいのかという自問自答を繰り返しました。さらにこのままでは自分がダメになってしまう、本当にやりたいのはテニスだと再確認させられました。その後、テニスの名門校として有名な柳川高等学校への転校を決意しました。これについては両親はかなりの反対で、教師からも留年について心配しているのかと勘違いされ、成績が悪くても大学はなんとかすると心配されるほどでした。

松岡修造が一度決意するとそれは固いもので、なんとかお父さんを説得しました。大学推薦枠を必ず貰うという約束の下許可が出ました。編入入学により、修造はテニス部に入りって練習をしました。当時のテニス部は監督がかなりのスパルタ教育を行って生徒を育てると有名で、他の学校とは関わりを持たず仲間内で集まるようにという指導方針でした。それは軍隊そのものだと例えられるほどです。練習内容は勿論のこと、上下関係についてはかなりの徹底ぶりで全国的にも有名でした。ミスを犯すたびにかなりの叱責が飛んできて、体罰も日常茶飯事でした。学校の無い日の練習時間はなんと12時間という過酷な状況でしたが、修造はこの練習の方針について嬉しいと思っているほどポジティブ思考です。いくら昔と言えどかなりの内容ですが、それも愛情だと捉えていたようです。

そこから2ヵ月後にウィンブルドンへの道と称したジュニア大会に出場しました。世界で通用するように日本のテニスの若手を育てるというもので上位4位をヨーロッパのメンバーに選出するものでした。その他の世界大会への出場チャンスもあるビッグな機会です。その大会でジュニアの中では優勝レベルの人を見事破りました。しかし、海外遠征と自分のチームの予選期間が運悪く重なってしまい、辞退したようです。そうした中、シングルスやダブルス、団体の全てを制覇して三冠達成を成し遂げました。これまでに芳しい成績を出していなかった松岡修造は感動して、仲間と盛り上がる楽しさも実感したようです。

翌年、同じように優勝するもインターハイの時期とかぶってしまいました。今回ばかりは本気で悩みぬいて、監督やお母さんにも相談しました。学校側の回答はチームに迷惑をかけることは許さないとのことでした。そこで松岡修造が決めた男らしい決意は、高校を休学して翌年に戻るという条件でウィンブルドンに向かいました。結果的に3回戦まで進出し、世界レベルであることを実感したようです。

遠征を終えて地元に帰ると、休学ではありましたが仲間と練習を続けていたようです。なんと、この時点ではプロになるとは思っておらず、海外選手の活躍を見てもいまだ実感してい内容でした。プロ意識は当時低かったらしく、日本人選手も居ないということも相まって当時の自分の才能を過小評価しました。飯田監督からボブ・ブレッドが日本に来るので自分が会えるように場所は設定する、練習の指導をしてもらわないかと声をかけられました。よくわからなかった松岡修造は詳しく話を聞いてみると当時のボブ・ブレッドにこの人は面白いというような話を飯田監督の知人に伝えられました。それを知った飯田監督が話を持ってきたようです。見事願いはかなって、ボブ・ブレッドが練習を見に来てくれて練習も行いましたがボブはとくにテニスのことには言及せず帰ったそうです。色々不安が募りましたが、その翌日に修造に電話があり「明日にでもアメリカに来い、日本じゃ強くなれない」との電話を貰いました。松岡修造はこの瞬間自分の力を認められたことを実感しました。

これを嬉しげに両親に伝えると、お父さんは好きなようにやれと呆れ、お母さんは大学を出てからという方針のようでした。しかし、一度決めたら固いのが松岡修造で両親を納得させました。アメリカ生活においてはホップマン・キャンプというアメリカの名門テニスクラブで練習をさせてもらうおようになりました。そのころの練習はひたすら体力を強化するもので修造も斬新な練習でうれしかったそうですが言葉の壁が問題になりました。授業についてもまったくついていけずで、英語の勉強を必死に行いました。それが成功して、相手の会話を聞き取れ、理解できるようになりました。そして、自分の言いたいことも大まかに伝えられるようになりました。公的な援助も受けつつ約束の大学に行こうかと考えていると、ブレッドからプロとして試合に出てみてはどうかと言われたのが人生を大きく変えるきっかけでした。相変わらず自信のない松岡修造は活躍できるわけないと渋りましたがそれを見たボブが怒り、つまらない恐怖心なんて持つな、思いがけない能力があるかもしれないだろと諭しました。自分の実力を知りたい松岡修造は、納得して出場をしました。様々な大会があり、その1つではサテライト・トーナメントがありました。エントリー条件は他の大会は厳しいものでしたが、こちらの場合は厳しくなく手はじめに参加できそうなものでした。

もっと熱くなれよ!

もっと熱くなれよ!

松岡修造本人も腕試しのつもりが、かなりの好成績を残りました。驚いたボブはプロにならないかと持ちかけました。さすがに即答は出来ず悩みぬきましたが、プロになることを決意しました。そこで、また両親の許可が必要でしたが、2年間で決着がつかなければ大学へ行くという条件を提示しました。お父さんは承諾、お母さんは反対でしたが結果的に賛成でした。プロになるにあたり、援助は一切行わないとお父さんからの条件でしばらくお金の工面に苦労しました。その当時は貧乏に耐えつつも世界中をかけめぐりました。食事にもこまっていて、良くない行動もしたそうです。当時、無名の松岡修造は苦労しており、練習相手にも困りました。たまに屈辱的な目を向けられたり、断られたりと様々でしたが練習の承諾を得ると、かなりの力を見せつけ、次第に周りは着目するようにりました。

2年後には見事世界ランク100位入りを達成し、注目を浴びました。しかし、そこで怪我をしており、両膝を負傷しました。度重なる手術やリハビリに耐え、無事復帰しました。復帰直後であるにも関わらず、アメリカで名前を残す功績をだして復帰直後とは思えない様子でした。その後、運悪く病気になってしまいますがなんとか復活しました。

100位という壁の突破はさすがの松岡修造もむずかしいらしく、ウィンブルドンで欠員が出たことにより大会に出る機会を与えられました。kろえが大きなきっかけになり、62年ぶりの日本人でのベスト8入りを果たしました。その後悔しい結果もありましたが、ソウルオリンピックやバルセロナオリンピック、アトランタオリンピックの出場を果たしました。それらの結果、現在のようにうっとうしくても注目されたり、なんだか勇気を貰えるといった肯定的な意見が多いようです。過去があってこその現在ですね。

松岡修造の性格について

過去があってこその今

過去があってこその今

これまでの松岡修造は実にポジティブであり、マイナス思考は持たないといったような印象でありましたが、実は極度のマイナス思考です。自分がマイナス思考にならないようにあえて声にしてみたり行動に移すというような方向にしました。その結果現在のように未だに注目されるようになったり、オリンピックの3連続出場を果たせるようになったということもあります。過去に辛い思いをしてこそ言えること、自分がそもそもマイナスな正確だからこそできる彼ならではの行動です。


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